日本の伝統「和」の建築
日本の伝統「和」の建築
about wa no kenchiku
古来より日本人が大切にしてきた感性や美意識。
今でも気づかぬうちに私たちのDNAに脈々と受け継がれています。
粋はこんな心を大切に家づくりをしています。
侘びとは、質素・不足の中に心の充足を見出そうとする意識のこと。
概念としての発生は万葉集の時代からとされており、茶の湯を通して日本人特有の感覚として浸透していきました。
寂びとは、閑寂さの中に奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさ。
西洋文化では、完成した瞬間に美しさが最大化されるという感性が一般的ですが、日本人は神社仏閣など年数を経たものこそが美しいという美意識を持っています。
足りないこと、長い悠久の時を経たものに美しさを感じる。何とも日本人らしい感覚です。
世界三大建築家のひとり、ミース・ファン・デル・ローエ氏は「less is more」という言葉を残しています。
ともすると、日本の「侘び・寂び」の文化の影響を受けているのではないでしょうか。
実は私たちの生活や風習・文化には、沢山の「奇数」に満ちています。例を挙げてみると、七五三・桃の節句(3月3日)、端午の節句(5月5日)、俳句の「五・七・五」、短歌の「五・七・五・七・七」、応援団の「三・三・七拍子」、和食の三種盛り、五種盛り、お年玉、ご祝儀などなど、言われてみれば「確かに!」という物が沢山。
西洋ではどうでしょうか。
モーゼ「十戒」、キリスト教「十二使徒」、オリンピック、米大統領選挙「4年に一度」など偶数が多く見られます。
偶数が「even(ちょうど)」、奇数を「odd(半端)」と言う事からも、そもそも偶数を中心に考えていることが分かります。
日本では偶数は「割り切れる=別れを連想させる」為忌避している側面と、左右・上下対称ではなく、非対称な奇数を「未完成・不完全の美」と捉える側面があります。
後述の白銀比1:√2も変換すると5:7となり奇数の組み合わせです。
西洋と日本とでは、対象物の隔て方が異なると言われています。西洋では石影や門扉などで空間同士を「区切る」のに対し、日本では「仕切る」のです。
障子や暖簾などをイメージして頂ければ想像し易いでしょう。
これらは素材の柔らかさ、視界の程良い遮蔽性で、空間同士をぼんやりと緩やかに隔てています。
障子から漏れ入る光の朧げな美しさ、暖簾の奥には何が隠れているのだろうという奥ゆかしさは、日本人の美意識と好奇心に訴えかけるものがあります。
家の建築を検討している方で、軒を深くしたいという方は多いと思いますが、そのような方も、「軒が欲しい」のではなく、「軒下の空間」を求めているのではないでしょうか。
軒下は表と中とをあいまいに繋ぎ、また隔てる幽玄の美を有しています。それを求めるのはまさに日本人のDNAに依るものなのでしょう。
前述のように、侘び・寂びの骨頂は「極力無駄を省くこと」にある。
鎌倉時代・室町時代前期の、武士が文化の担い手であった豪華絢爛が持てはやされた時代を経て、禅僧や町人が文化の中心となったことも質素倹約を良しとする背景にあるのでしょう。
千利休は自身の茶室待庵において、究極の建築的減法により無限の世界を表現しています。
枯山水の庭は読んで字のごとく水が無いのですが、石や植栽の配置、砂に描かれた波紋により、有る以上に水を感じるのです。まさに「余韻の美」とも言えるでしょう。
俳句は五七五の十七文字というごく少ない文字数に詠み人の想いが集約され、桜は満開よりも散り際こそが美しい、これらも日本人の中に息づく「引き算」の感覚によるものです。
欧米では昔から華美な装飾や対称・均一な「人工の美」が、美意識の中心に置かれていました。
対して日本人の美意識は、神社仏閣や日本庭園で見られるように、自然に溶け込み融和することに重きを置いています。
自然界の中には完全に対称で整ったものなど存在するはずがなく、おのずと不完全なもの、対称でないものに美しさを感じるのです。
非対称の例として、「阿吽の呼吸」という言葉にも用いられる、神社の入り口にある狛犬や仁王像を見てみると、一方は口を開いた「阿形」、もう一方は口を閉じた「吽形」の非対称であることが分かります。
また、茶室や書院などに設けられる違い棚は、左右対称による固定・安定ではなく非均衡による流動性・拡がりを醸すもので、外国ではまず見られないそうです。